差別感情
今回のゼミではみんなで哲学を勉強しよう!ということで先生からA、B、C、Dと部類分けされた資料が4枚配られました
前週から哲学をするということは聞いていたのでどんな感じなんだろうとワクワクしていましたが…。
めちゃくちゃ難しい…笑
ゼミの時間内ではAの段落について読み、話し合いましたが、まず自分がどんなことについて納得したか、疑問を持ったのかという意見を出すことができませんでした。
難しいということもありましたが、単純に自分の読むスピード、理解するスピードが遅かったのかな?と感じました
文章を早く読むことも少しは必要なんだな〜と。
これはどれだけ本を読んできたかの量に比例するんだなと思いました。もっと本を読んで、能力上げていかなきゃな…。
先生からはじっくりゆっくり読んで理解していこうと言われたので何度か周回して、まずはABCDの大きな段落の流れを掴んで、そこから一つ一つ整理していくことにしました!
まずはAです!
Aでは、
差別とは人間の中の悪意に基づく。しかしこの悪意を全て消し去るべきであろうか?
という問いから始まります
そして
人間というものは
- 他人を騙し、貶め、危害を加え破滅させる。
- 動機によって他人に危害を加える
と述べてあります
これに関して思ったのは
ここまで人間の悪について大きく言うのか?!ということです。確かにそう思って生きている人もいるかもしれないけれど、少し誇張させすぎているのではないかと思いました。
そしてこのことから、フロイト、ローレンツ、ストーの3人の考察が登場します
この3人の考察・主張から
攻撃心を無批判的に受容し肯定するのは危険だが、無批判的に排除し否定するのも危険
だということが導き出されます
とても難しいですね…。笑
受け止めるべきか、拒むべきか
そして最後には、自らの中にある悪意を消し去るのではなく、その悪意と上手く付き合っていくことで生きる価値を見つけていく。悪意の中にこそ人生の豊かさがある。
としてAの段落が終わります。
これには半分納得でもう半分は納得いかない感じがしました!
集団と集団でぶつかり合いが起きるのも、自分の味方を守るため、友情・恋愛・家族愛のため。このようなことから生まれる攻撃心はなくしてはならないと僕も思いました。
僕自身もこのようなぶつかり合いが起きた場合、自己犠牲の精神であったり、集団を守る行為をすると思います。
でも悪意の中だけに人生の豊かさは生まれるほど人間は寂しい生き物なのかと疑問に感じました。
たしかに「悪意」という感情は人間にしかない特別なものなのかもしれません。
そしてその悪意を上手くコントロールすることで様々な経験を積むことができ、生きる価値を見出せるかもしれません。
しかし、悪意だけでなくいいことをしようという善意であったり、人やモノに対する好意からも何か見つけ出せるのではないかと思いました。
次はBです!
Bでは「快・不快」についての話でした
人間は他人から不快に感じられたくない。しかしどうしても不快に感じてしまう。
このような感情を人為的に操作することはあってはならない。
という主張から始まります
そして差別論の難しさを解決するための方法として
全ての人はたとえ不快を感じていたとしても、あたかも感じていないかのように振る舞うべきである
というものが挙げられています
しかしこれはすぐに否定されてしまっています
前提として人間は、不快に感じられること自体嫌っているのである。というようなことが書かれてありました。
不快に感じていないかのように振る舞われた当人は、それを知って感謝などするはずない。むしろ振る舞った側を恨むだろう。
僕自身、誰と接するにしても「嫌われたくない」という感情が先にでてしまう性格なので、この部分には納得できました
そして後半では差別感情の定義について述べてありました
ある社会的劣位グループの構成員をその構成員であるがゆえに一律に不快に思う感情
を差別感情とし、このような硬い差別意識からくる感情を抑えるべきである
と書いてあります
さらに「その構成員」であるがゆえに不快に思うと、上記のような差別感情になるが、様々な要因の中にたまたまそれがあることで、差別感情ではなくなってしまう。
とあります
これはとても難しいです
その人の考えていることなんてその人にしか分かりません
だからこそ1人1人が自らの感情と向き合い、抑制していくべきではないかということが僕の考えです
次はCです!
Cでは主に「帰属意識」についてでした
帰属する共同体を持っているからこそ、アイデンティティが確立される。
しかし反対に帰属意識があるからこそ、悪意がなくても差別感情が育てられる。
「家族」という共同体は唯一、愛を大々的に表現しても許される。
しかし家族に恵まれない者からすると、非難され排除される対象にされてしまう。
絶対にこれは必要だ!とは言い切れない内容でした。
僕は自分の家族が大切だし、一緒にいて楽しいと思えます
しかし、だからといってその自分だけの価値観を他の人に押し付けるのも正解ではないなと感じました。
家族がいることが当たり前。
家族はみんな揃ってご飯を食べる。
家族は喧嘩しても次の日には仲直りできる。
このような考えが周りにいる知らない「誰か」を傷つけているんじゃないかって思いました。
自分にとっての当たり前は本当に世間一般の当たり前と合致しているのか?
このような考えを持つことが、差別意識を抑えるための1つの手段なのではないだろうか。
Cを読んでそんなふうに考えることができました
最後にDです!
「よいこと」を幼い頃から教え込まれた僕たちは、それから外れた道を歩む者を軽蔑する。
さらに矛盾したことを同時に教え込まれる、という問題が発生する。
このような問題を直視しようとするべきである。
ということがDには述べられていました
この内容は大学生になった現在、確かに!と納得することができました
幼い頃は、「ちゃんと宿題しなさい」「成績上位を目指しなさい」「レギュラーを獲るために練習し上手くなりなさい」などといった「客観的によいこと」を求められることが多かったなと感じました
しかし、「そうではない人たちを馬鹿にするのはやめなさい」「できない人を助けてあげなさい」
と難しいことを同時に教えられたような気がします
たしかに「みんなもやっているから」と流されて、自分も同じことをやってしまうようなことが多々あります
しかし「やりたいことをやっている」人を、自分の価値観から外れただけで、軽蔑するのは間違っていると思います。
Cでも述べたように、「よいこと」を自らの価値観として押しつけているだけです。
これはエゴであり、これがある限り差別というものはなくならないと思います
ABCDの全てを読んで思ったことは
差別はしてはいけない。でも差別感情がないと日常生活に支障をきたす。
ということです
自らのエゴから生じる差別感情は抑える。しかし守るべきもの、愛すべきもののためには差別意識を持つ必要がある。
とても難しいです。
この2つの反することを上手く繋げていかなきゃいけないんですが、これが自分の今出せる限界でした。笑
今週のゼミでは実際に、ゲストの方と一緒にこのことについて話し合います
もっと自分の意見を深められるようにもう一度読んでみようと思います!
では今回はこれで
end👋